第20回 記念コメント投稿ページ

中津川べりフォークジャンボリーは、お陰様で今年で第20回の節目を迎えます。

当初8ユニットから始まったイベントですが、近年では2日間42組に増え、
毎年楽しみにしていただいている一般のお客様も年々増え、
おかげさまで盛岡の秋の風物詩として定着させることができました。

これもひとえに、会場に足を運んでいたたいたお客様並びに、
ご出演いただいた大勢のミュージシャンの皆様、
そして “プラザおでって” をはじめ、ご協力いただいた関係者の皆様のお陰です。

第20回開催の節目を期に、一度、これまでの足跡を振り返る機会にしたいと考えており、
出演やご来場の有無にかかわらず、皆様より広くコメントを頂戴したいと思います。

文字数やテーマの制限などは設けませんので、ひとことふたことでも構いません、
このページの最下部より、ぜひご投稿ください。
沢山のコメントをお待ちしております!!

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14 comments to “第20回 記念コメント投稿ページ”

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  1. 久しぶりに聞いたよしださんの声は、以前と変わらない笑い声で、安心とともに盛岡の皆さんに会いたい気持ちが溢れてきました。

    ご無沙汰しております。楽音人の松橋です。
    初めて出演させて頂いた時は高校生だった私も35歳。一人娘も12才になります。
    現在はあの頃のように音楽に没頭する日々は送っていませんが、空いた時間にギターをつま弾いたり歌ったりする日々です。

    もちろん今も幸せなのですが、「べり」を通じて出逢えた先輩方と過ごせた時間は、何年経っても色鮮やかなままです。
    自分はなんて幸せ者だったのだろう、と今更ながら思うのです。
    そして沢山の愛を頂いたのに、何も恩返しが出来ないまま、「べり」から、音楽から遠ざかってしまったこと、今も申し訳なく思っています。

    何年かかっても恩返しがしたいので皆さん元気でいてくださいね。(笑)

    最後になりましたが、「べり20周年」おめでとうございます!
    本当に、本当にすごい事だと思います。
    今年も皆さんの熱い情熱が沢山の方々の心に届くことを、秋田の地から祈っております。

  2. 中津川ベリフォークジャンボリー開催20周年おめでとうございます。
    このイベントから素敵な出会い、感動をたくさん頂いた事を心から感謝しております。
    私の初参加は2004年、それから16回参加させて頂き(5回目までAGふれんずというグループで 1 回は司会のみ) 私の秋はベリジャンボリー色に染められています。
    思い出をたどると直ぐ浮ぶ場面は、笑、涙、ハプニングのシーン 明るい歌を唄い、お客さんから手拍子や笑顔を頂いているのに、何故か涙が溢れて止まらず唄えなくなってしまった事。
    演奏中、会場にいた人達の電話が一斉に鳴り
    「緊急地震速度です!」と、知らぬはステージ上の、ふるたいむ3人だけ。 そしてかぶせるように「次はスイングという曲です。体を揺らしながら聴いて下さい」てな事もあったな~。
    しゃべりすぎて持ち時間がなくなり曲数を減らしたことも何度か、全てのシーンが今となっては楽しいお酒の友となっています。

    ベリジャンボリーこれからも年齢を問わず多くの人から愛されるイベントとして、
    ギターを持った、たくさんの表現者を応援してくれる場として、
    そしてフォークソングを愛する者達の憩いの場として、あり続けてくれる事を願います。
    いつまでもベリ色の素敵な秋を。
    フォーエバー!ベリジャンボリー。

  3. 20回目にして10回目だけど11回目(親指企画:原田K介)

    あの頃、ご本人のHPさえマメにチェックしていれば、別に都内でも首都圏でも、年に何度かは行けていたのだ、加川さんのLIVEには。
    しかし、加川さん、何やら“フォークジャンボリー”にお出になると書いてあるではないか!
    しかも、良くワカラナイが10周年の“中津川”だ。
    “べり”だけど。

    『行かねば』
    と、そう思ったのだ、東京都北区赤羽から、何故か夫婦&犬2頭連れで。
    『ジャンボリーなら、キャンプだな』
    ってのも決めたんだったな、確か…都南つどいの森、だったかな、高速の無料配布地図でおおよその位置を見比べると、キャンプ場は盛岡市街から直ぐ近くに見えたのだ、
    『“べり”に通うのにも便利そうだな』
    と。

    実際に通うのは結構大変だったけど、色んな時間帯の色んな方々の演奏を聴かせてもらい、もちろん締めの加川さんも堪能させて頂いた。
    今でも記憶に残る、シアワセな秋の連休だった…が、何故だか僕の思考回路は、
    『このイベントって、自分もエントリー出来るのか?もしかして?』
    と、あらぬ方角に向かってしまっていた。
    誰に呼ばれたワケでもない盛岡のイベントに、自主的に参加って、普通じゃないよ、近所じゃないんだから。

    エントリーは翌年の11回目からだから、思えば今年が10回目の参加になるんだなぁ、自分も。
    当初は参加歴の浅い新参者として、縮こまっていたんだ、これでも。
    しかし、初参加にして、あのギョーザ臭い打ち上げに、すっかり参ってしまったのだ…あの頃は、誰もが今より10歳分若くて、凄い騒ぎだったもの、30分超えした出演者の土下座とかね。
    打ち上げ、楽しかったなぁ…いや、今もとっても楽しいッスけど、あの頃のノリは壮絶で、我が家なんてもう、
    『盛岡に移住したい』
    ってくらいのノックアウト振りだったっけ。

    その後、あの大震災があって、僕は音楽イベント以外にも、本業に絡めて年に何度も岩手県沿岸部に通う人生が始まって…“べり”10周年で初めて体験した盛岡にも、この8年半の沿岸行きの拠点として、数え切れないくらい滞在している。
    まさかこんなにも岩手に通うことになろうとは、人生、全くわからないものだけど、しかし僕にとっては岩手との関わりの何もかもが、
    『“べり”10周年の加川さんから始まってる』
    これは間違いないのです。
    そう、“べり”10周年の加川さんのお陰で始まった…から、僕のおでって通いは11年目、出演は10回目、なのです。

    そして“べり”20周年、おめでとうございます&本当に大変なことだと思います、凄いですよ、実行委員諸氏!
    参加させて頂けることに、心より、感謝です。

    あ、え~と、通うのがあまりにも大変だったので、あれ以来、都南キャンプ場から“べり”に参加するのはやめました、朝のミーティングとか、無理だし。

  4. 中津川べりフォークジャンボリー20周年おめでとうございます。
    初めて中津川べりを意識したのは、たしか、おでっての野外ステージを通りがかりに見かけた時だったかと思います。
    でも、その時は「じっくり聴いてみたい」とか「出て歌ってみたい」とはならず、また何年かが過ぎていきました。
    たぶん、ギターは持っていたものの「人前で歌う」ということが、何か遠い世界のことのように思えていたのかもしれません。

    転機が訪れたのは、2008年でした。
    何がきっかけだったかは忘れてしまいましたが、たぶんチラシをどこかで手に入れて、初めてじっくりと聴きに行き、
    出演者の方々の真摯に音楽に向き合う姿に触発されて、「自分もステージで歌ってみたい」と思うようになりました。
    そして、2009年に50歳になったのを自分で勝手に記念して、意を決して出演を申し込みました。
    それ以来、今年で11年めの出演になりますが、毎年中津川べりを励みに、そして楽しみにマイペースで歌っています。

    始めは、ソロでカバー曲をやっていましたが、だんだんに一人では寂しくなり、
    次は、マスター清水(ライヴバー・クロスロード店主)に手伝ってもらい、二人で出るようになり、
    その次は、ベースの松平くんが加わって、佐藤淳一&マスター清水・松平亨となり、
    さらには、一時ゲストボーカルのMayuちゃんも入って、佐藤淳一&マスター清水・松平亨 with Mayuとなって、
    桜井さんに「これ以上はチラシに入らないから、もうグループ名は長くしないで!」と注意されました。(笑)

    また、中津川べりで歌うのを目標に、すこしずつオリジナル曲も作るようになり、
    お誘いして聴きに来てくださる人たちに、聴いてもらうことも励みになりました。

    私は、中津川べりフォークジャンボリーの「学芸会的」な雰囲気が好きです。
    出演だけでなく、申し込んでから選曲を考えたり、練習したり、チラシを受け取ってからみんなに紹介したり、
    そして、当日楽屋にて皆さんと交流したり、片づけもみんなで行ったり、3~4か月は楽しめます。
    もちろん、実行委員会や運営スタッフの方々の苦労は、見えないところでたくさんあると思います。
    そのことに感謝しながら、今年も中津川べりの盛会を祝いたいと思います。

  5. 祝!20回!! 中津川ベリフォークジャンボリー様

    20回もやってればいろいろあったと思います。僕ももちろんいろいろありました。
    だから「べり」には出れたり出れなかったりで(出れないときでも、いつも心には「べり」がありました)。
    ここまで続けてこられた実行委員会の皆様のご尽力には本当に頭が下がります。

    岩手中の歌好き、ギター好きが集まる祭典です。今年は久々に出れるみたいなんで思いっきり楽しめたら、と。
    楽屋で、会場で、皆様とお会い出来ることを楽しみにしています!

    でもいつも結構緊張しちゃうんだよなぁ。。。

  6. 中津川べりフォークジャンボリー20回開催おめでとうございます!!
    第1回目のチラシに「小さな頃、うたを歌っていました。大人になっても歌っていきたいなぁ。」と書いている20歳の私がいました。
    あれから約20年。今でもあの頃と同じ様に、ギターを抱えてうたを歌える事、とても嬉しく思っています。
    そして、こうして歌う場所をつくり続けてくださるみなさんには感謝の思いでいっぱいです。
    20年ありがとうございます!!

  7. 中津川べりフォークジャンボリー20周年おめでとうございます。と、ありがとうございます。
    思い起こせば・・・。記念すべき第1回。お誘いを受けた時、中津川 “べり” とはうまいことを考えやがったな〜って感心しておりました。(中津川フォークジャンボリーを知らない世代には、何のこっちゃ〜?かもしれませんが。)それから19回、毎年のように歌わせて頂いております。
    歌わせて・・・。と、言いましたが添付のフライヤーを見て下さい。第1回の1年前のことです。高校時代、社会人と盛岡で歌っていましたが、いつしか歌うことをやめていました。主催者のよしだかずをさんから「また歌いませんか?」のお誘いを受けた時、「ん?歌っていいのか?」「ん?何で歌うのをやめていたのか?」とハッと気が付き歌い始めました。タイトルが “70年代,僕等はフォーク少年だった”。キャッチコピーの中に「押入れ」からギターを取り出して・・・ってありますように本当に押入れからギターを出しました。子供達の驚いた顔が昨日のことのように思い出します。
    休んでいた15年間を越えて20回まで来ました。昨年は、結成40周年ライブをしました。
    この“べり”がある限り・・・足腰が立つかぎり歌って行きたいとおもう今日この頃です。

  8. 人に歴史あり
    イベントに歴史あり
    20周年おめでとうございます(o^^o)
    すごいですね〜
    20年も続けちゃうなんて、ほんとすごいです!

    私が「べり」に最初に出演したのは2003年でしたかね、、、そうそう!!司会が、ふじポンとTAGさんという豪華さで、屋内・屋外の2ステージという編成でした(懐かしいな)
    花巻のkatsu with 2Uというバンドで出演し、その後も計4回出場させてもらったのですが、あれ?そんなもん?という印象(笑)
    きっと一回一回が色んな意味で濃いイベントだからこそ、そういう印象なのでしょうね。

    そして諸事情で宮城の実家に移り住み、それでも何でもかんでも音楽は辞められず、またもや活動を始めるわけです。

    観客で久しぶりに訪れたのが2012年。
    高橋政彦さんとカラカラで出演したのが2013年。
    katsu with 2Uは2014年。
    そして今、メインで活動してる「にこいち」は、2015年から出演させてもらっているので、今年で5回目になります。

    相方の千葉さんは宮城県石巻市の方なので、当然ですが、ほとんど知り合いがいない状態。
    が、私に知り合いが多かったこともあり、回を重ねるごとに千葉さんを知ってる人、お友達が増えていきました。

    そんな様子を見ていると、ああ、、かつてkatsu with 2Uで活動した時もこんな感じだったな、、回を重ねるごとに知り合いが増えて、ライブに誘ったり誘われたり。
    この「べり」があるから、ミュージシャンだけでなく観客、スタッフが集い、そして一つのコミュニティとなり、人の輪がどんどん広がっていく。。

    感動ものです。
    思い返すと本当に本当に濃い時間を過ごさせてもらいました。
    そしてそれは、これからも続いていくものと思っています。
    近くにいても、遠くに住んでも、いつも帰ってくる場所、それが私にとっての「べり」です。

    これからも、どうぞ宜しくお願い致します。
    (審査に通り続ける限りは(笑))
    (いや、落ちても観客で遊びに来ます!(笑))

  9. べりでは自分が出演するひとつ前の演奏がはじまると、
    演者は、舞台袖で待機するという決まりになっている。
    客席とつながっているので、音を出すのは禁じられて
    薄暗い中で三十分。ただただ静かに出番を待っている。

    私はこの舞台袖で待つ時間が、どうにも苦手のようだ。
    これまでたぶん15回くらいは経験しているのだけれど
    馴染まない。にもかかわらずべりの印象と問われれば
    袖の風景が頭に浮かぶ。自分が損な性格の気さえする。

    中津川べりフォークジャンボリーが20回目を迎えた。
    よく続けてこられたなという実行委員の声も聞こえた。

    私はふと思う。続いているのはステージじゃないよね。
    ステージは、続いているのではなくて積み重ねだよね。
    むしろ、続いているのはそこに至るまでの過程の方で、
    出待ちの舞台袖をモノともしない実行委員を称えたい。

    20年目の中津川べりフォークジャンボリーありがとう。
    想い続けてくれた時間の深さに頭が下がります。感謝。

  10. メッセージ
    吉田かずをさま
    ゆっかちゃんから連絡をいただきました
    第一回司会者 松本美貴です!
    ご無沙汰しています
    そして20回おめでとうございます!
    かずをさんの熱い情熱が形になったイベントからもう20年経つのですね
    あの頃のかずをさんは、熱かった!そしてなんともセクシーでしたw
    いまも更に熱い情熱を持ち続け ジャンボリーもますます拡大していってるのですね
    セクシーも健在かしら!?
    わたしはIBC岩手放送を退社した年に担当させていただきました
    懐かしいな、映像とか写真は残ってるのかな?
    あっという間の20年ですね
    わたしはあれから結婚し、東京でアナウンサーをやり、出産し、以降もやりたいことを生業にしてきました
    息子は高校生になり、それを機にいま看護学校の学生になっています
    50歳の新人ナースを目指して いま また 青春真っ最中です
    中津川べりフォークジャンボリーご出演の皆様、スタッフ、ボランティアの皆様、2日間 そして その準備の日々
    すべてが 青春!ですね
    ジャンボリーの成功を祈念しています
    松本美貴

  11. 「20回目」おめでとうございます。実行委員会の皆さん毎年お疲れ様です。打ち上げで「来年は?」の問いに「来年にならないと分からない」と必ず答えるかずを氏、これくらいのスタンスが20回続いてきた要因かなと感じます。
    2012の「べり」で始まった私の音楽活動もあっという間に8回目の参加となりました。ここのステージ、控え室や打ち上げで学んだ事が今の活動の基本となっています。今年もひとつ歳をとった皆さんに会いに行きたいと思います。

  12. メッセージ中毒性ある「べりイズム」を求めて。
    〜わたくしとべり〜

    文=高橋政彦

     私の日々老化の一途をだとる記憶が正しければ、ここまで(8月29日現在)19回中17回「べり」に出演させてもらっています。
     衝撃的だったのはやはり第1回目。あの伝説の「中津川フォークジャンボリー」に「べり」を付けるという、冗談みたいなタイトルを冠してアコースティック音楽の祭典が開催されることを新聞で知った私は、エンディーさん(現・一関セレナーデ)とのユニット「SSOM 2/5」で勇んで参加エントリー。嗚呼しかし時すでに遅し、「参加者の募集は終わったんですよ」と首謀者ひげ氏が申し訳なさげな声で言うではありませんか。ガーン。
     しかし、中津川の神は我らを見放さなかったのであります。問い合わせの電話をひげ氏にしつこくしていたのが幸いし、開催数日前になって、ドタキャン出演者(誰かは知りません)のおかげで繰り上げ当選。奇跡の出演と相成ったのでした。しかも私たちはトップバッター。主催者の皆さんもまさかその後ずーーーっと続くイベントとはその時は思っていなかったのであろうから仕方ないのだが、輝くべき「べり史」の最初の一歩を、私たちの「ちいさな秋みつけた」(←だったと記憶しているが)が刻んだのでありました。
     その後「SSOM」を解散した後も、私はソロの弾き語りスタイルを中心に、当時高校生だった息子とのユニット「タカハシ家」で3回、歌姫かめちゃんとの昭和的混声ユニット「カラカラ」で1回、そして去年からは禁断の和訳ビートルズコピーバンド「The Eggmen」でも出演させてもらっています。今後何も問題が発生せず、無事出演できれば、20回中18回の出演が達成するのであります。時代や欲望とともにカタチを変えながら、その時々の好みのスタイルでライブをさせてきていただいて来たことは、一人の歌うたいとしてすごくありがたいことなのでありますよ。
     さて、最後に「べり」と言えば、出演者のみ知る「楽屋」と「打ち上げ」であります。どちらも「べり」ならではの友好と混沌の場です。単なる控室や懇親会ではありません。ここにこそ「べり」を企てた熱い人間たちの「イズム」が漂い、蟠っているのでございます。毎回、私はその「イズム」が正しくも怪しく漂い蟠るのを確かめようとエントリーしているのかもしれません(大袈裟)。
     一度出たらやめられない、そんな中毒性ある「べりイズム」が有り続ける限り、私はどんな形であれ、中津川の畔を目指すことをここに宣言してこの駄文を締めくくるのであります。

  13. 私のファンはワガママだ。

    酒は飲めるのか、ツマミはあるのか、おネエちゃんはいるのかと聞いてくる。何が勘違いをしてないか?そのチケットを見てくれ500円だぞ、なら20枚買えば飲んでもいいんだなってそういう事ではない。

    こんな輩を満足させるためには実行委員会にワガママを言って出演時間を6時半頃に設定して、聞き終わったらすぐに街に繰り出せるようにするしかない、おネエちゃんは自前で用意してくれ。

    そしたら飲み屋のおネエちゃんを同伴して来るわ来るわ、最近はこの「べり」を利用してそのまま職場の飲み会やカラオケに移行するグループまであるくらいだ。

    初めて出演してから十数年が経つ。その間歌う立場からいつの間にか指導する立場になってしまった。

    それでもいまだにこのステージでアルペジオを弾くと手が震える。どうしてだろう。

    それは圧倒的に観客の中のプレイヤー率が高いからである。いい加減な事は出来ないのだ。

    「べり」のいい所はこの「プレイヤー達の目」である。初めて出演した者はこの目の洗礼を浴び、震える。そしてその目に鍛えられ何年かするともう手は震えなくなる(私は例外だ)

    盛岡の地にアマチュアの出演できるステージを作り、それを維持してきた実行委員会諸氏には頭が下がる。

    あのあまりにも有名な中津川フォークジャンボリーに「べり」を付けただけのなんちゃってイベントは今年20周年を迎えた。

    『中津川べりフォークジャンボリー』は盛岡の文化になったのだ。

  14. 初出演は、2007年。1曲目の1サビからギターの弦を3本切る、というシーンは未だかつて他に見た事がありません。「あれは伝説だった」と言われ続けてきましたが、私自身でも「あれは伝説だった」としか言いようがありません。(笑)

    三味線と化した私のギターをかずをさんが瞬時に受け取り、舞台袖で6弦全てを張り替えて下さいました。あの時から、かずをさんへの”頭の上がらない日々”が始まり、2012年までの5年間、毎年出演する事になって・・・いえ、毎年心から楽しみにしておりました!

    私自身は2013年に音楽活動を廃業し、出演する事は叶わなくなりましたが、その後も裏方として音楽の世界には関わり続けております。いつか、べりの皆さんと再会した時、誇れる仕事が出来ていられるよう、精進していたいです。私にとっての”べり”は「ただいま」と言いたい場所です。

    中津川べりフォークジャンボリー、20周年おめでとうございます!

佐々木篤志(JUNちゃんトリオ) へ返信する コメントをキャンセル

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